
博士号を持つ現役ダンサーの執念 「誰も言語化できなかった本」
- アップダウン
- ストリートダンス
- ダンス
12月。 「アップダウンって、知ってますか?」 著者から出版の相談を受けたとき、最初に投げかけられたのがその言葉だった。
聞けば、ダンサーなら誰もが通過する「基本のキ」だという。 「でも、この動きに正式名称はないんです」 なるほど、と僕は頷いた。
「だから、この動きをひもとく一冊を作りたいんです」
……え? その動きだけで、丸ごと一冊ですか? 正直に告白すれば、最初はそう思った。 ダンスを知らない人間から見れば、それはただの「上下運動」に過ぎない。それ以上でも、以下でもない。 上下運動だけで、一冊の本が成立するのだろうか。

アップダウン。アップ&ダウン。ダウン&アップ。 呼び名すら、人によって異なる。 誰もが知っているのに、なぜか誰も正解を説明できず、解釈すら曖昧な動き。 しかし、話を聞き進めるうちに、僕は妙な引っかかりを覚え始めていた。
著者がやろうとしていたのは、「アップダウン」という最小の動きを入り口にしながら、「ダンス」という文化そのものを問い直すことだったからだ。
僕はダンスに詳しいわけではない。ダンス甲子園(※1)世代ではあるが、知識は皆無に等しかった。 「 LL BROTHERS(※2)もアップダウンしてたの?」 ――僕のダンス知識など、お恥ずかしながらその程度だ。 だからこそ逆に、「ダンサーの当たり前」の裏にある深淵が、新鮮でならなかった。

(※1)日本テレビ系番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』での企画。1990年から1991年にかけて放送され、ストリートダンスブームの火付け役となった人気企画 (※2)1990年にテレビ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の企画「高校生制服対抗ダンス甲子園」に出場して連覇を果たし、日本中に一大ダンスムーブメントを巻き起こした
「前例がないなら、自分で作る」
博士号を持つ現役ダンサーの執念
著者の黒田都華さんは、異色のバックグラウンドを持つ。ダンス教育研究で博士号を取得している、現役のダンサーなのだ。
「アップダウンを問い直す本が世の中に存在しない。なら、自分で作るしかない」
その言葉には、理知的ながらも、圧倒的な説得力があった。
会議に提出する企画書は、何度も形を変えた。 「これは技術書なのか、文化論なのか、あるいは教育書なのか」 僕は著者とともに、あらためて「この本を読む人は誰なのか?」という原点に立ち返り、熟考した。その果てに見えてきたのは、本書が単なるハウツー本の枠に収まるものではない、という確信だった。

「ダンサーに届く本」に
するための構造設計
著者の願いは明確だった。この本を「ダンサーに届く本」にすること。そして「アップダウンと本気で向き合うきっかけ」にすること。 だからこそ、安易な「初心者向けのわかりやすさ」に逃げるのではなく、「ダンサーが真に思考を深められる構造」を最優先にした。そのため、章立ての構成は慎重に組んだ。 「アップダウンとは何か」という定義から入るべきか。先にストリートのカルチャーを置くべきか。歴史やレジェンドたちの証言はどこに挟み込むのが最も効果的か。
そして、さらに重要なのは文章そのものだ。 本書は単なる教則本ではない。
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感覚論に終始せず、現場感覚と理論を接続できているか
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読者の身体感覚を呼び覚ます流れになっているか
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「それな」という共感だけで終わらせず、その先にある思考を促せているか
著者と幾度も赤入れを繰り返し、読み進めるごとにダンサーの思考が深掘りされていく、知的興奮を伴う一冊へと仕上げていった。
スマホじゃ盗めない、
身体で受け継いだストリートの血脈
推敲を重ね、赤字を入れながら、何度も肌で感じたことがある。 この本は、単にアップダウンのテクニックを解説する本ではない。むしろ、「なぜ、ダンスは感覚だけで継承されてきたのか」という、文化の神秘に迫る本なのだ。
今の時代、ダンスはスマホ一台で学べる。YouTubeを開けば、世界最高峰のレッスン動画が無料で転がっている。 だが、かつては違った。 先人の背中を見つめ、現場の空気を吸い、泥臭く身体に染み込ませていく。そんな時代が確かにあった。
本書には、日本のストリートダンスシーンの礎を築いたレジェンドたちの生々しい証言が登場する。なかでも、九州から全国へと鳴り響いた「Be Bop Crew」の存在感は圧倒的だ。 アップダウンの創始者であるYOSHIBOW氏、SEIJI氏。彼らが宿した身体感覚を、PEET氏やYOSHIE氏らが受け継いでいく。
興味深いのは、その偉大な継承が、決して言語化されすぎていない点だ。正式名称すら定まっていない。それなのに、彼らの遺伝子は確かに次の世代へ受け継いである。 これこそが、極めてストリートカルチャー的な営みではないか。 「定義できないもの」が、身体を通じて魂に刻まれていく。本書の本当の面白さは、このダイナミズムにある。
「ダメもとで……
お願いしてみてもいいですか?」
編集作業もいよいよ大詰めを迎えた頃、「帯のコメントを誰に依頼するか」という話になった。 ストリートの歴史を知る誰かだろうか、と考えていた僕に、著者は少し緊張した面持ちで言った。 「ダメもとで……SAMさんにお願いしてみてもいいですか?」
一瞬、思考が止まった。「TRFの……SAMさんですか?」「はい」。そうか、日本のダンスブームの頂点に君臨し続ける、あのSAMさんか。
驚きはしたが、すぐに腑に落ちた。SAMさんは『ダンス甲子園』と同時代に、日本のダンスカルチャーを最前線で牽引してきた当事者だ。90年代の狂騒のど真ん中にいた彼以上に、この本の文脈にふさわしい人物はいない。
——数日後、SAMさんから帯コメントの快諾を得たと連絡が入った。 それだけではない。SAMさん自身もまた、あの時代に「アップダウン」を身体に刻み、継承してきた一人だったのだ。
本書は、彼らが命を懸けて踊り、繋いできた文化の歴史書だ。その本質が真っ直ぐに届いたのだと確信し、胸が熱くなった。

「ただの上下運動」が、
一冊の文化論になるまで
「ただの上下運動」 最初に抱いたその安易な印象は、完全に覆された。ここで掘り下げられているアップダウンは、日本のストリートダンスカルチャーの血流そのものだった。
やはり、この本はダンサーのための本だ。 しかし同時に、「名もなき衝動が、いかにして文化へと昇華していくのか」という、普遍的なドキュメンタリーでもある。
ダンスを愛する人はもちろん、音楽、ファッション、あるいは何らかの「文化」に魅せられたすべての人に、ぜひその目で確かめてほしい。
【記:2026年6月16日】
UP&DOWNって、なんだ? —ダンサーを魅了するリズムの話
著者: 黒田都華
定価: 2,200円(本体2,000円+税10%)
判型: A5
ISBN: 978-4-86250-876-8
発売日: 2026年6月16日
この記事は2026年6月17日の情報です。
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